ゲーム開発者が偉ぶるブログ

ゲーム開発のビジネスやマネジメントについて日々思うことをあれこれ偉ぶって書き綴ったもの。

作家性と巨額の投資の歪み

前回の記事で、作家性に対して巨額の投資を行う時代は終わるといった話を書いた。

なぜか。

それは端的に言えばまともな開発ができていないからだ。作家の実現したいことに比べて開発が全く追いついていない。

だから開発が長引く。

長引くと開発費が嵩んで回収できない。つまり商売にならない。

 

開発が長引くことは悪いことずくめだ。

ファンを待たせるし、待たせている間に興味を失わせてしまう。計画性の無い進行状況下ではプロモーションもやりにくいだろう。

開発中そのタイトルは稼げないお荷物になるので、会社存続のために別のプロジェクトで収益を上げ続けなければならない。そのため社内では足を引っ張るプロジェクトとして針のムシロになってもおかしくない。

開発が長引く理由は単にゲームのボリューム云々ではない。「あとは量産するだけ」「アウトソースでOK」という体制まで持っていけるほど習熟していないのだ。うまくいってないから長引く。
なのでいつ完成するかどころかいつ量産体制に入れるのかすら見通しが立ち辛く、会社全体でも事業計画が練りにくくなるだろう。また開発を進めるほどにペンディングするか少しでもコスト回収するかIPやブランドのために出すかといった判断も決め辛くなっていくだろう。

そんな中でスタッフのモチベーションは下降の一途を辿る。プロジェクトに対して他人事のスタッフは「どうせポシャる」「早く無くなれ」と願う一方で、何とかしなければならないと責任感が高い人ほど圧倒的絶望に苛まれる。

 

‥では、なぜまともな開発ができないのか?

ひとつは開発すること自体に戦略性が無いからだ。つまりマネジメントが軽視されているからだ。

マネジメントが軽視されると、反省が無く知見が貯まらない。そのため、常に行き当たりばったりでゲーム内容もゲームバランスも突貫工事のオンパレード、そして見積もり精度がひどく低い。そして最悪なのがそれを何度も繰り返してしまうことだ。色んなプロジェクトが同じ失敗をやっている。これが企業なのか?と思ってしまう。

マネジメントする人間がいたとしても権限が無い。作家性を発揮する人間‥つまりディレクションする人間の暴走を制する権限のある人間がいない。なぜなら、作家性を発揮して大規模なプロジェクトを立ち上げることができているというのは、少なからず過去に成功してきており、IPを生んだ人間だったりするからだ。その場合プロデューサーは立場が弱い。暴走を制する人間がいるとしたら経営陣だが、経営陣は現場が抱える具体的な問題というのは把握できていないし、現場で開発をうまく回す方法とは離れた位置にいるので現場に任せるしかできないのだ。
もしも経営陣が何とかしようと割り込んできてもうまくいかないだろう。できるとしたらディレクターをすげ変えるくらいか。しかしすげ変えたらうまくいくなんてそんな簡単な話ではない。リリースさせるだけでも相当なエネルギーが必要だろう。MOTHER2の岩田さんのような、FF14の吉田さんのような、作り直して成功させた例は希有に思う。
作家系ディレクターは頭に思い描いて目指すものは高いが、納期や予算を守るビジネスでの観点で言えばプロ意識がとても低い人種に思う。アーティストではあるがプロではない。

まともな開発ができない理由として、マネジメントの他にももうひとつ。

企画を練る側の人間に責任感が足りない傾向もあるのではないか?

企画というのは制作フローの中での最上流だ。下流であり実際に実データを制作する人間ほどスケジュールへの意識は自然と強くなるが、企画者本人が制作がスムーズに進んでいるか、狙い通りになっているか、遊び応えはどうかと最後まで進行と調整に責任を持って臨んでいるなら最上流であり最下流にもなるはずだが、どうも発注したらあとはグラフィックデザイナーとプログラマでなんとかするだろうと放置気味な風潮を感じる。

 

以上が私が感じる、国内の作家性の強い大規模開発の現状だ。

PS2くらいまでは作家性を表現するにもハードウェアの制限も大きかったので規模を大きくするにも限界があり、人員を投入さえすればマンパワーで何とかなった。それがPS3以降どんどん規模が大きくなってきて破綻が目立ってきており、さすがにそろそろ開発体制が整っていない中で作家性に巨額の投資を行うことが許されない状況になってきているだろうと想像する。

 

次に打開策を考えてみる。