今Houdiniが熱い
今は2017年の初頭。
2015~2016年は日本国内のゲーム開発でUnreal Engine 4の採用報告が一気に増えた年だ。
一方でSubstance DesignerやPainterの導入も徐々に進み始めてきた。ボーンデジタルがかなり前よりデモを行っていた記憶があるが、Uncharted 4のスタッフとタッグを組んでのアプローチもあり、ようやく実りを見せてきたという印象だ。
これらに共通するのはノードベースのエディティングだ。
UE4のブループリントしかりマテリアルエディタしかり。非破壊であり、流用性の高いノードネットワークを構築することも可能だ。今や多くの開発者がノードベースが珍しくなく感じてきていることだろう。
そんな中、2016年頃からゲーム業界にもHoudini導入の兆しが見えてきている。
ノードベースと言えば、何よりもHoudiniが歴史があるイメージだ。だが非常に高価で、予算をかけた映画や大手のスタジオでのVFXで一部使用されている‥という印象でしかなかった。
それが、Apprenticeという無料学習版の登場により自宅で無料で学習できるようになった。
そしてHoudini Engineの登場だ。
Houdiniを触ってみたりチュートリアルなど漁ってみた感触としては、破壊やパーティクル、流体といったダイナミクス系の表現がシェルフから手軽に試せて、しかも品質が高い‥という面も良い面であることに違いは無いが、何よりも「何でもできる」と言わんばかりのGUI周りの仕様とモデリングのみならずダイナミクスにまでプロシージャルに構築していける柔軟さに心を打たれる。
そして個人的には、プロシージャルということ以上にGUI周りの自由度の高さがすごい。パラメータを別のパラメータに自由に関連付けたり、パラメータにエクスプレッションを設定したり、果てはパラメータを自由に増設可能だ。
だが、ゲーム開発のワークフローにどこまで組み込めるかというと、気になる点がいくつかある。
・お値段の高さ。
・0からのモデリングのし易さ。
・アニメーションの制作のし易さ。
・Pythonを使った強化周り(開発資産にしていけるのか)。
・Mayaとの間で情報を失わず柔軟な行き来が可能かどうか。
・バージョンアップでの互換性(過去資産をそのまま運用できるか)。
・Houdini Engineの有用性。
日本国内のゲーム開発はSIが減ったこともあり今やMayaがシェアを独占状態だろう。
その中で、Houdiniをワークフローの一部にだけ使用するという導入はあっても、Mayaになり代わっていく未来はまだまだ見えない。
国内のHoudiniユーザーの少なさ、情報の少なさからも導入したは良いが使いこなせるのか‥という危惧もある。先を見据えて、TA素養の高いスタッフ1人2人をHoudiniのスペシャリストを育てるつもりであてがうようにする必要がありそうだ。そのためにはどういった用途に力を発揮するのか明確に理解している必要がある。また、スペシャリストを育てる余力があるのか?という問題もある。
スペシャリストが育つ土壌ならHoudini EngineをMayaやUE4に導入していく道もあるだろう。だがまだ事例が見当たらないからだろうか。メリットが見えにくい。
だがゲームエンジンとDCCツールの行き来を少しでも軽減できるなら、それだけでも価値はあろうというものだ。開発がなるべくゲームエンジン上で完結し、かつ快適であるのならそれに越したことはないからだ。
Houdiniが広がるのかどうかは、実例が充実してきてからだろう。
それが5年後なのか、10年後なのかはまだ分からないが、今触っておいて損の無いツールであることは間違いない。
技術書の執筆の難しさ
先日、CG関連の技術書の印税の話をした。
日本は今でもCG関連書籍が少ないように感じる。が、それは出しても売れないことの裏返しだろう。書籍はゲームソフトとは違い、小売店(本屋)から返品が可能であるという。売れる見込みが無いと本を刷れない。
電子書籍のみで出せば在庫の心配が無くてノーリスク?
いや、それでは購入者はさらに減り、また筆者の執筆料に最低保証をどうするのかという問題がある。紙の書籍の場合は最初に発行部数があり、それに合わせてある程度の部数を原稿料として払ってくれるのだ。一冊も売れなかったとしても最低保証分は払ってもらえるからこそ、執筆しようという気持ちになるものだ。
だが難しいのは売るだけでなく中身の問題もある。
沢山売りたいなら広く浅くという内容になり、ニッチな技術を扱う場合は入門書からとなる。執筆者にとって入門書ほど書くのが面倒なものはない。ソフトウエアの解説書なら、インストールとGUIから説明しないといけないのだ。そんなもの、マニュアルを読めと言いたくなる。しかしマニュアルを読まない読者層に読んでもらうためにも、イラストや図をふんだんに使って文章少な目でテンポ良く展開してゆく必要がある。
そして簡単に陳腐化する。一番困るのはメジャーバージョンアップが激しいソフトウェアを扱う場合だ。一年経つともう書籍の通りにいかない箇所が出てくるのは書き手としてもツラい。
こういった理由によって技術書を書く技術者としては非常にモチベーションが上がり難い。技術者は情報発信はしたくても、自分でなくてもできる余計なことに貴重な時間を割きたくないものだ。
しかも書籍になるともなるとブログによる発信とは違って間違った情報を書いてしまった時にリカバリーか効きづらい。いや、当然ながら「間違った情報は書けない」という心持ちで臨むものだ。なので当たり前のように知っていることでさえも、単語の使い方は正しいか、言い回しは正しいかという部分から始まり、技術回りについても入念に調べて書く必要がある。
「知っていることをそのまま書く」だけでは全く済まないのだ。非常に大変な労力がかかる。
ブログは書く方にとっては気楽だが、読み側にとっては情報があまりに分散されていてまとまっていないため、リファレンスとしても、集中して学びたい場合にも向かない。
ただ近年は技術書の同人誌が増えてきている。これは嬉しいことでもある。ただしこれらは当然ながら赤字覚悟で有志で制作しているものであろう。
もう少し、大手企業が業界全体のために書籍を出すのを助長するような動きがあると良いのだが。国から補助金とノルマでも与えられない限り実現は難しいだろうか。
技術書の印税の現実
「印税」と聞くと夢のある言葉のように思えるだろう。
だがそれは1万部以上は売れる書籍の場合だ。
悲しいかな、日本ではCGの技術書は2000部も売れなかったりする。
書籍を書くチャンス自体は意外と転がっているもので、特にまだ書籍が出ていないソフトウェアは狙い目だ。マニアックなソフトをSNSやブログで解説し続けていればオファーがやってくる。
今ならSubstance DesignerやSubstance Painterの書籍をどこの出版社も早く出したがっているだろうし、ニッチ所を狙うならBodyPaint 3DとかMariとかMarvelous Designerあたりが注目を集めやすいのではないだろうか。
特にSubstance DesignerやSubstance Painterは現場でようやく導入が進みつつあるが専門学校では全くと言っていいほど導入されていない印象だ。書籍があればベテラン講師が見つからなくとも授業を開設できる。
だが問題はどれくらい購入者がいるかなのだ。
ニッチなものほど売れにくいし絶版になりやすい。
企画は通り易くも通りにくくもあるだろう。あまりにニッチ過ぎると出版社に思われれば企画は通らないかも知れない。でもまだそのソフトウェアを扱った書籍が一冊も国内にないなら通ったりもする。
一昨年のCEDECの出版社による講演は非常に生々しい話だった。金額も売上もかなりの部分公開されていて、好感が持てる反面「CG書籍に印税の夢は無いなあ‥」と悲しくなったものだ。私も過去に執筆させて頂いて出版された書籍があるが、ネットで調べた通りのものだった。
印税は定価の7~8%、多い人で10%。
つまり7%だった場合、定価3000円の書籍なら1部売れれば210円、1000部売れれば21万円、2000部売れれば42万円。しかし冒頭に書いたように現実には2000部売れなかったりするのだ。
2ヶ月まるまる家に引き籠って40万円いかないかも知れない。
そうなると、金銭を得るための仕事としては割りの良いものとは思えなくなってくる。
しかし一方で、一冊書籍を書けば知名度が上がり、仕事は舞い込んで来るようにもなる。そういう意味では一冊書いておくのはとても良いように思う。
翻訳されて海外でリリースできるならまた話も違ってくるかも知れないが。
ウン万部売れるような本を世に出して印税ウハウハになってみたいものだ。
Nintendo Switch について
西川善司氏の記事を読んだ。
記事中に「性能競争から下りた」「消費電力対性能比を重視」とあるが、任天堂は初期の頃からそのスタンスを貫いている企業と思う。
ゲームボーイをモノクロにしたことからもそれが分かる。Game Cubeなどやたら堅牢だ。落としても簡単には壊れないことにこだわっている。破格の価格設定もファミコンからしてそうだった。
そこからは、「実用的であることがデザインである」という哲学を感じる。
常に新しい体験を与えるために新しいモノを提示してくるが、車で例えるなら決してスーパーカーを作る会社ではない。
そして製品価格を抑えるだけでなく開発コストに歯止めをかける意図も込みでのスペック策定には、国内の死屍累々のハイエンドの現状をみる限り正しいように思える。
もちろん、映画のようなCGグラフィックスを追求したい会社も多いだろうし、それを支えるハードの存在も大事とは思う。
とは言え、マルチプラットフォーム戦略を取らざるを得ない、ハイリスクな据え置きプラットフォームの状況からは、WiiやWiiUの悪夢からはぐっと楽になったのではと思う。一方で特殊な仕様面から開発を嫌がるスタッフの声もよく耳にする。
さて、記事中で興味深かったのは、ドックの主な役目が接続のみになるという点だ。
それならドックのせいでお値段が跳ね上がっているという訳ではないだろう。「本体のみで販売していれば2万円になるのでは」‥という声を見かけたが、どうなのだろうか?
ただゲームパッドにはコストが掛かってそうではあるが、DSやWiiの頃からの応用部分は低コストになってそうでもある。ハードについてはサッパリだ。しかし西川氏も本体のみのバリエーションモデルの可能性はゼロではないだろうと述べている。興味深いところだ。
それから、switchの値段について「高い」という意見と「安い」という2つの意見に分かれているが、29800円は意見が分かれる値段であろうとは感じた。2万円を切れば誰でも安いと感じるだろうが、約3万円ともなればやはりキラータイトルが無い限り一般ユーザーは手を出さないだろう。そして「スーパーマリオ オデッセイ」や「マリオカート」、そして「スプラトゥーン」「ゼルダ」「ゼノブレイド」がキラータイトル足り得るかというと、どちらもやや弱い感はぬぐえない。
「ドラクエ11」がPS4&3DSとswitchとで同時発売なら様相は変わってくるかも知れない。ここは楽しみなところではある。
任天堂はNintendo64以降、サードパーティ製の専用キラータイトルにはなかなか恵まれず、常に自社タイトルでライバル機と立ち回らざるを得ない状況だったように思う。
もちろんゼノブレイドなど魅力的なタイトルはあるが、switchでその状況は変わるのか?はたまたスプラトゥーンのような魅力的なタイトルをやはり自ら生み出してくるのか?このあたりは興味深く見守っていきたい。
開発者のはしくれとしては、見守るよりも開発していく立場なのではあるが、現時点ではswitch自体の持つ魅力の面では将来性をまだ感じない。なのでそこに専用タイトルを投じていくべきだ!とはまだ思えないのだ。保守的な考えで想像力に乏しいのかも知れない。
WiiUが登場した時、正直「なんて中途半端なハードなんだろう」と思った。その時は「リビングルームで家族で遊ぶコンセプトを維持したい気持ちは理解できるが、TVに繋げることができて単体でも遊べるゲームパッドだけで良いのではないか?もはや据え置きである意味はあるのか?」と感じた。
だからswitchが発表された時には、「ああ、WiiUでは本当はこれがやりたかったのではないか?」とさえ思えた。とはいえWiiUはswitchほど携帯性に特化したものは全く目指してはおらず、そこはやはりリビング限定で遊ぶものを想定して作ったことに間違いは無いのだろうとは思う。
しかし西川善司氏の記事には相変わらずの素晴らしいリサーチと知識にただ感嘆する。
こちらも貼り付けておく。
起業する意味
こんな記事を読んだ。
良い記事だ。
「膨張していただけ」という会社は、案外多いのではないか。
人数だけ増えて死屍累々、そんな会社にはしたくないし、働きたくないものだ。
そして掲げたという憲法の内容が良い。
単なる下請け、派遣をしないというのが良い。ここは非常に賛成するところだ。
難しいかも知れないが、もし需要が大きい開発会社を起業できたなら、安請け合いは自らの首を絞めると思うのだ。
じっくり戦力を鍛えた上で、攻めの姿勢の価格設定で戦わないと、ひたすら自転車操業でただただ苦しい状況が延々と続く‥というのは悪夢でしかない。
ただ組織を大きくして、大きな案件を受注できていけばそれで良いのか?
それが企業理念なのか?その先に何を求めているのか?
では具体的にどうしていけば良いのか?については、じっくりと考えていきたい。
リードの使命
ゲーム開発においてセクションリードになると、そのセクションの責任を負うことになる。
具体的には大きく分けてふたつ。
1つはマネジメントの責任。
セクションメンバーに対して、彼らのキャリアパスやモチベーションや適材適所を踏まえながら仕事を割り振り、進捗管理し、人事評価を行う。
必要であれば教育し、問題が起これば解決を図り、人員が足りなければ募集・面接・補充を行う。
あと他セクションや上層との折衝も必要だ。
もうひとつは制作物に対する責任。
遂行すべき業務を求められる水準の品質でスケジュール内に完了する。
開発の規模や要件によってはセクションの人数が1~2人しかおらず、リードと呼べるか曖昧な場合もあるが、少なくとも後者の制作物の責任は負うことになる。
前者はセクションの人数が増えるほどに大変になる。一定の人数や開発要件の難度を越えた場合はマネジメントとクオリティラインの提示のみに集中した方が良い印象だ。
そして近年、このどちらにも関わる重要な要素がある。それはアウトソーシングだ。
アウトソーシングするとなれば、例え自分一人のセクションであってもタスク割り振りやワークフローの整備、指示出しやチェック、外交能力が求められてくる。
さて、そんな中でリードは何をすべき人物であらねばならないのだろう。
クオリティチェックのためには、リード自身、求めるビジュアルが明確に見えており、何を修正すれば求めるビジュアルになるのかを指摘できなければならない。それはつまりリード自身が求められるビジュアルを表現できることと同義になる。
はたまた、マネジメントやアウトソーシングにはワークフロー策定と管理能力が求められる。
それらの条件をクリアしつつアセット制作もメインで行うなど、今のハイエンド開発で誰ができると言うのか。そんな超人は大手起業の中でも稀有な人物だろう。
ならば、せめて分担できれば良いのではないか。
マネジメント担当とクオリティ担当に分けるのだ。リード2名体制、またはリードとサブリード体制だ。これならぐっと現実的になるのでは。
そしてその体制の場合に人事評価もそれぞれリードとしての正当な評価が得られる必要が当然あり、社内に浸透すれば2通りのキャリアパスが確立されるであろうと思う。
それから、もはや各プロジェクトそれぞれで同じようにゼロから模索している場合ではない。マネジメント、アウトソーシング、ワークフロー、これらのノウハウを全員が共有する体制になることが急務に思える。
果たしてこれらがキチンと体制として整っている大手パブリッシャーが国内にどれだけあるだろう?